Friday, October 19, 2012

自転車を都市住民の足に!


千葉県では「自転車利用の増大に対処し、自転車交通の安全と円滑を確保するとともに、スポーツ・レクリエーション等を通じ心身の健全な発達に資するため、自転車道の整備を推進」している。震災で破壊された個所もあるが、利根川沿い、外房にはかなり長いサイクリングロードが整備されている。
サイクリングロード地図
こうした専用道路も大切だが、本当に「心身の健全な発達に資する」ためならば、レクリエーションやレジャーとしてではなく、普段の生活の脚として自転車の利用の促進を図りたい。自転車が使いやすい町になれば、クルマの利用が減り、都市の渋滞緩和、大気汚染の防止、温暖化ガス排出抑制にもつながる。
●現状。

社会実情データ図録より転載
県別で見ると千葉県の人口100人当たりの自転車保有台数(推計値)は埼玉、大阪などに次いで多い。比較的平坦であり、電車との接続が容易な都市部での利用が多いと思われる。
ちなみに自転車の普及が一番少ないのは沖縄県。沖縄は肥満度(男女とも)の一番高い県でもある。肥満の原因は過食と運動不足だと言われ、結果は医療体制への負担となる。沖縄では肥満と糖尿病が増えている。アメリカ式のファストフードが本土に先駆け60年代からあり、脂っこいものを大量に取込む食文化が広がっていた。米軍基地のもたらした健康被害のひとつと言えるかもしれない。本土の各県でも肥満率が高くなっている。食生活の改善、そして運動が医療体制への負担を減らす予防となる。肥満を防止し、医療体制への圧力を減らすためにも自転車は効果がある。

社会実情データ図録より転載
●世界の状況

社会実情データ図録より転載
12の国について、交通手段別のトリップ数構成比のグラフがある。出かける時の手段に自転車が使われる比率が大きい順に、オランダ、デンマーク、日本、ドイツ、スウェーデン、スイス、オーストリア、英国、フランス、イタリア、カナダ、米国となる。
カナダ(74%)や米国(84%)は自動車の比率が高い。それが国民の運動不足を招き、肥満比率の高さにつながっている。
●未来からの俯瞰
IEA(国際エネルギー機関)が認めるように在来型のアブラ(いわゆる普通の原油)は2006年に生産ピークを迎えた。それ以降、エネルギー効率の悪い油田(たとえば深海油田や極地の油田)、タールサンドやオリノコ原油などの非在来型のアブラの比率がどんどん高まっている。アブラの価格は10年前に比べ、5倍近くになり、これからも上昇していくだろう。
石油時代の後半に差し掛かり、これまでのようなエネルギーを大量に使う生活は根本から揺るがされる。
日本では輸入される石油の4割近くが運輸に使われている。ピークオイルを過ぎた時代、これまでのように交通、運輸をアブラに依存していくことは難しい。
そして何より、自転車は陸上の移動手段の中で、もっともエネルギー効率が良い。

社会実情データ図録より転載
●モデル
都市部では、オランダやドイツの諸都市のように、普通の道に自転車道を設ける。または場所によってはクルマの乗り入れを禁止する。駐輪場を市内各地に設けるなどして、とにかく自転車を使いやすくする都市計画が望まれる。クルマを使いにくくし、自転車(や徒歩、公共交通機関)を奨励する様々な仕掛け、仕組み、措置が必要になる。
自転車製造業、町の自転車屋、自転車の修理や再生などのほか、自転車タクシーなどが雇用を生み出し、自転車の利用により、健康が維持され、医療体制への圧力も弱まるだろう。

ベロタクシー

Wednesday, October 17, 2012

パーマカルチャー:下降の時代を楽しく幸せに暮らすための処方箋


11月初頭にコモンズから出版されるデビッド・ホルムグレン著『パーマカルチャー』から、訳者あとがき(のようなもの)を転載。

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●袋小路な時代
本作が2002年にオーストラリアで出版されてからの10年間、特に顕著になってきたのは窒息するような閉塞感だと思う。何をやっても何も変わらない無力感に苛まれ、ガラガラポンのリセットを待望する空気が世界に充満しているような気がする。数字の上では豊かになっているはずなのに、幸福の実感はどんどん薄れている。日本では、毎年3万人以上が絶望から自殺に追い込まれている。行き場のないやるせなさが蔓延している。別な価値観や生き方が求められている。
言葉を換えると、人間は進化を求められているんじゃないだろうか。でも、どんなふうに進化したらいいのか、それがわからない。昔に戻ることはできないし、ただシンプルにってこともできない。だれにもまだ答えは分からないのかもしれない。だから、立ち尽くしちゃう。はっきりしていることは、これまでと同じやり方ではいけないってこと。道筋は見えないけど、これまでの方向じゃだめだってことだ。これまでのように未来にツケをまわして、つかの間の上昇や拡大を盲信し、人間の能力を過信し、飽食を続けていくことはできない。もうだめだ。本物の幸福は財布の中身では測れないところ、もっと別なところに見つかるのかも知れない。
閉塞感ややるせなさを生み出しているのは、これまで数十年通用した「しあわせの処方箋」が役に立たなくなっているからだ。現代文明を支えてきた安い石炭や石油などの炭化水素燃料が手に入らなくなり、右肩上がりに成長を続けていけなくなってきたからだ。化石燃料を燃やし続けたツケ払いも迫っている。これまでのやり方、常識を変えなけりゃならない。

2011年3月11日、日本の住人は未曾有の地震と津波、そして現在もまったく収束のめどすら立たない原発事故に遭遇して、ガラガラポンになっちゃった。これらの災禍からいろいろなことがはっきりしたが、いざという時、頼りにできるのは自分自身だと気がついた人が多いだろう。どん詰まりの時代に政府や企業をあてにはできない。

ホルムグレンが『未来のシナリオ』(農文協、2010年)でも指摘するように、こうした激動の時代には単純明快に即決行動をとるように見えるファシストや独裁者が台頭しやすくなる。民主主義がもたもたと議論を踊らせてる間に、問答無用の連中がのしてくるというわけだ。
ファシストや独裁で危機にうまく対応した例もある。90年代のキューバは、ピークオイルという危機に社会がどう対応したらいいのか、いくつもの例を見せてくれた。都市農業や裏庭農業、公共機関の地方分散などをとおしてキューバ社会はソ連とコメコン国際分業体制の崩壊がもたらした危機を曲がりなりにも乗り切ることができた。でも、これらの方策が独裁政権のもとで有無をいわさずに行われたことも忘れてはいけない。カストロのような独裁者ならともかく、ひとつ間違えたら、北朝鮮になる危険もある。ロシアンルーレットで運を天に任せ、独裁者の慈悲に期待するのか、それとも下降の快感を味わいながら、人間性を再獲得し、脱炭化水素時代を民主的に創造していくのか。その選択は人間一人ひとりにかかっている。

●ピークオイルと気候変動の発症
人間社会がこれまで経験したことのない時代にパーマカルチャーは「下降の文化」としての真価を発揮するだろうとホルムグレンは説く。上り坂の時代にはそれに見合った産業文化が必要だが、下り坂の時代にはそれでは通用しない。パーマカルチャーは下降の時代を楽しく幸せに暮らすための処方箋なのだ。


本書が02年に発刊されてからの10年の間にエネルギー下降の時代はさらにくっきりと姿を現し始めた。本書が出版された頃には冷笑されることの多かったピークオイルについての理解も、10年を経て、いまでは現実として受け止められるようになった。
10年の間でもっとも象徴的な出来事はIEA(国際エネルギー機関)が2010年の年次報告『エネルギー概観』の中で、「原油生産のピークは2006年だった、その生産が二度と上向くことはない」と、さらりとピークオイルに言及したことだろう。楽観的な予測を繰り返し、ピークオイルの「ピ」の字にも言及せず、様々な人の警告に耳を貸さなかったIEAがである。ホルムグレンが本書の序章で語る「エネルギーの山頂」を人類はすでに越し、下山への準備に残された時間はそれほど残されていないということが、公式に確認された瞬間だった。
もうひとつ、ピークオイルに関してこの10年間の象徴的な出来事をあげるなら、権威ある科学誌のネイチャーが2012年にピークオイルについて論文を掲載したことだろう(1月26日号)。「気候変動への対策:原油生産はティッピングポイントをすぎた」と題された論文を書いたのは米ワシントン大学の気候変動プログラムの創立理事、ジェイムス・マレーと英オックスフォード大学のデビッド・キング卿(2000年から07年まで英政府の主席科学顧問)だ。タイトルが示す通り、気候変動の専門学者からの視点になっている。
この論文の主要な点は下記の通り。

●経済への波及効果が大きく、しかも直接であるため、化石燃料の消費を抑制することが火急の課題である。
●2005年がティッピング・ポイント(転換点)だった。それ以後、需要は伸び、価格が上昇しているにも関わらず、原油生産は天井(一日7500万バレル)にぶつかったかのように増えていない。
●世界経済が現在立ち直ろうとする経済危機も、原油価格の上昇が引き起こしたものだ。
●経済は、これから起こるであろう原油価格の動きに耐えられない。
●化石燃料依存から脱却することでしか、健全な経済発展は望めず、気候変動にも対応できない。
●化石燃料依存からの脱却は何十年も要するものであり、今すぐ取りかからなければならない。
●問題は原油の枯渇ではない。原油はふんだんにある。手に入らなくなるのは、これまでのような安い原油だ。
●原油市場は弾力を失い、わずかな需要の伸び、供給の不安でびくびくする。
●タールサンド、オリノコ原油、深海原油、極北原油、液化石炭などの非在来型原油は役に立たない。
●あまり騒がれなかったが、2008年からの不況は「信用危機」だけが引き起こしたものではなく、原油価格危機もその理由である。
●歴史的に見て、世界の経済成長と原油生産の間には密接な関係がある。
●原油の生産が伸びられなければ、経済も成長できない。
●気候変動への政策取り組みは鈍かったが、ピークオイルに端を発する経済の鈍化が短期的には、気候変動への対策となる。
●原油生産の減少に取り組むことのできない政府は、不況だけでなく、気候変動のもたらす壊滅的な影響をもろに被ることになる。
●各国政府は無駄を省き省エネへ更なる取り組み、石油製品への税率を上げ、クルマの制限速度を下げ、公共交通機関の奨励、再生可能エネルギー源の開発へ税制優遇などにとりかからなければならない。

ピークオイルについてかじったことのある人に何も目新しいことはないどころか、それがもたらす最大の問題である食糧供給についての言及がないなど不満は残るが、やはり、権威のある雑誌に権威のある学者が書いたということはそれだけで大きな意味がある。また、ホルムグレンが『未来のシナリオ』でピークオイルのもたらすエネルギー危機の速度と気候変動の発症の度合いを複合的にとらえ、4つのシナリオで検討したように、これまではピークオイルの研究者には気候変動とのからみで複合的に問題を捉える傾向があった。しかし、気候変動を研究するものにはピークオイルへの関心がほとんどなかっただけに、気候変動研究者がこの論文を書いた意味は大きい。

もちろん、未登頂の高みが、雲の向こうにあるはずだと思う人はたくさんいる。でも、アメリカではハーシュ報告書(米国エネルギー省の要請で行われた世界的な原油生産のピークとそのインパクト、影響緩和とリスクマネージメントに関する研究報告書。主任研究員だったロバート・ハーシュの名前を取り、ハーシュ報告書と通称される。2005年に作成されたが、しばらくは入手が難しく、ある高校のサイトに掲載されていた)やオーストラリアではBITRE117報告書(インフラ交通、地域経済局Bureau of Infrastructure, Transport and Regional Economicsの研究報告書。2009年に作成されたものの、2年ほど、発表されなかった。現在もBITREのサイトには掲載されていない)などのように、各国政府はピークオイルを研究している。イギリスでは政府内に対策委員会が設置され、その影響を緩和するための政策作りにリチャード・ブランソン(バージン)などの企業人も加わり、具体的な審議にはいっている。原油の消費ではほかに類を見ない団体である米軍(ERDC報告書[陸軍のエンジニア・調査研究センターEngineer Research and Development Centerによる報告書]、2005年)はともかく、ドイツ軍(BTC報告書[ドイツ連邦軍改革センター(Bundeswehr Transformation Centre)による報告書]、2010年)もその影響を研究している。そして、これらの研究はネイチャー誌の論文同様、その影響が社会の多岐にわたることを認め、速やかな対策を施すことを呼びかけている。

ピークオイルの醜い双子である気候変動も、この10年、危険水域にどんどん踏み込んでいる。兆候はいたるところに見える。常識や記録を塗り替える洪水や干ばつ、山火事、豪雨、寒波や熱波があちこちでたくさんの被害を生み出している。世界的には「最も温暖だった年」の記録が更新され、いろいろな国で最高気温の記録が更新されている。降雨量も嵐も型破りなものばかりだ。2005年に「百年に一度」の干ばつを経験したアマゾンの熱帯雨林は、二酸化炭素を大量に排出する場所になってしまった。

●世界の動き
ギリシャ神話にはカサンドラという未来の災禍を予言する美しい王女がでてくる。でも、カサンドラの予言にはだれも耳を貸すことがないという呪いがかけられていた。安いエネルギーが右肩上がりで手に入る時代の終焉を告げ、下り坂の時代の生き方を説くホルムグレンも現代のカサンドラのひとりなのかも知れない。ただし、ホルムグレンとカサンドラとの違いは、パーマカルチャーのメッセージは世界中で受け止められ、実行に移されていることだ。
エネルギー下降時代に社会はどうしたらいいのか、人間はどう生きたらいいのか。エネルギーの頂から積極的に、しかも創造的に下山する動きは世界中で始まっている。

映画『幸福の経済学』を作ったヘレナ・ノーバーグ・ホッジが力説するように、これからの時代を幸せに生きるために不可欠なのは食の地産だ。安い石油に頼り、地球の裏側までのびきった供給網に頼る暮らしを少しずつ自分のそばへたぐり寄せることだ。豊穣な下降の道筋をデザインする動きは世界中で始まっている。グローバリゼーションの中でこなごなに破壊されてしまった地域経済、社会、文化を取り戻す動きは世界で始まっている。
そうした運動の主役は政治家ではない。企業でもない。それは個人であり、地域社会だ。自分の幸福はカネでは買えない。幸福を取り返すためには自ら行動を起こしていくしかない。無味無臭で季節感すらないのっぺりとしたグローバル化した社会に決別し、自分の暮らしを自分の手に取り戻し、家族の手に取り戻し、地域社会の中に据え付けるしかない。
その方法はひとつではない。それぞれの場所で、それぞれにあう形で、創造的なやり方が編み出されている。自家菜園、都市農園、田舎への帰農などもそうだし、たとえば、ゲリラ・ガーデニングもある。都会の空き地に食べられる植物のタネをまき、食料生産の場所に変えていくのだ。夜影にまぎれ公共の空き地に果樹の苗木を植えて回る連中もいる。そうかと思えば、自らの食糧消費を減らし、都市の生み出す余剰で暮らすフリーガンと呼ばれる連中もいる。スーパーのゴミ箱に積極的に飛び込み、まだ十分食べられるのに賞味期限切れというだけで捨てられる大量の食物をゴミの流れから拾い出し、それで暮らす人たちだ。自ら生産はしなくとも、現代の大量生産、大量消費社会に異議を唱える方法はたくさんある。
パーマブリッツと呼ばれる運動もある。パーマカルチャーと電撃戦を意味する単語を組み合わせたものだが、インスタントにお手軽に庭をパーマカルチャー式な畑に変えちゃおうという運動だ。ピークオイルのウエッブ雑誌の老舗である『エネルギー・ブレティン』の創立編集者のアダム・グラブなどが始めたもので、庭の改装デザインはパーマカルチャーを学んだ連中があたるが、実際の作業にはボランティアが参加する。そうやって、ほかの人の庭の改修を何回か手伝うと、自宅の庭を改修してもらう資格ができる。パーマブリッツを通して、地域社会作りもできるという一石二鳥の社会運動だ。メルボルンで始まったバーマブリッツ運動は、世界に広がりつつある。
こうして、地域社会や地域経済をグローバル化から地域住民の手に取り戻そうとする社会運動で最もよく知られるのは、パーマカルチャーを教えるロブ・ホプキンスが2005年にアイルランドのキンセールで始めたトランジション・タウン運動だろう。ピークオイルと気候変動への現実的な対応として、世界各地の町や村に飛び火し、地方の行政を巻き込みながら、野火のようにじわじわと広がりつつある。トランジション・タウン運動の骨格はパーマカルチャーだが、運動に関わる人の中にはパーマカルチャーなんてまったく知らない人も増えている。そのくらい一般に浸透しつつある。

●90億の人口、40億の中産階級
2012年1月、国連の「地球の持続可能性に関するハイレベル・パネル(GSP)」が「世界人口は現在の約70億から2040年までに90億近くに増えるとみられ、ミドルクラスの人口は今後20年の間にさらに30億人増えるため、資源に対する需要は飛躍的に拡大する」という内容の報告を出した。
この報告書が予想する数字の中で、たぶん、一番衆目を集めるのは90億という数字だろう。しかし、最も深刻な意味を持つのは、現在約10億といわれる中産階級が4倍にふくれあがることだ。絶対数の増加も重要だが、もっと大きな意味を持つのはその人口がどんな質の暮らしをするのかということだ。どれだけメシを食い、どれだけエネルギーを消費するかということだ。ぶっちゃけた話、世界人口が90億に増えても、みんながバングラディッシュ人レベルで暮らしていたら問題はない。ところがアメリカ人や日本人のような暮らしをするなら、地球は3つも4つも必要になる。
この中間層の伸びを加味して国連の報告書は「2030年まででも、現在よりさらに少なくとも50%の食糧、45%のエネルギー、30%の水が必要になる」とはじき出す。
今の5割増の食糧はいったいどこから手に入るのか。もちろんフリーガンたちのように、飽食社会の無駄をなくすことで養える人口があるのは事実だが、それにも限りがある。世界の耕地面積にも限りがある。すでに毎年520万ヘクタールの森林が伐採されている。魚の85%はすでに乱獲され、枯渇の危機に瀕している。
日本に暮らしていると分かりにくいが、真水も世界では次第に手に入りにくくなっている資源のひとつだ。食糧を生産するためには耕地だけでなく、水が必要だ。インドなどでは需要を賄うため、井戸の深度がどんどん深くなり、現在では何千万年も前、恐竜が闊歩する時代に溜まった水に手をつけている。無駄をなくし、節水に努めていっても、やはり限りがある。今の3割増の水需要をどう確保するのか。
エネルギーはどうなのか。今、世界では一日に8800万バレルの液体燃料が消費されている。これの5割増のエネルギーはいったいどこから来るのか。
報告書は「世界で急増する人口の需要を満たすのに十分な食糧、水、それにエネルギーを確保するための時間がなくなりつつある」と指摘している。しかし、時間さえかければどうにかなるものではない。どんなに時間やカネを費やしても解決できないことがある。使いっきりの資源はまさにそれだ。人間に利用できる土地や水などにも限りがある。地球には限りがある。
GSP報告は、これらの水やエネルギーや食糧が見つからなかった場合、30億の人々が貧困に追いやられる恐れがあると警告する。それだけの数の人間が生と死の瀬戸際に追いやられ、もうまかなえなくなるという意味だ。収奪できる空気や森林、水資源や魚もあまり残されていない。増え続ける人口をぼろぼろになった地球はもうまかなえない。そして自分は生死の境をさまよう30億の一人になるかも知れない。あなたの子供がその一人になるかも知れない。
これは冷酷なことのようだが、生態学的には当然の帰結なのだ。生態系では手に入るエネルギーや食糧が増える時、人間を含めた個体数は増える。それが70億であり90億の人口だ。ここまで増えるのは、それをまかなえるエネルギーがあったからだ。しかし、手に入るエネルギーや食糧が減っていく時、個体数はそれに見合うように減らざるをえない。それが生態系だ。人間だけが生態系の制約を受けないという理由はまったくない。人口がこのまま増え続けるということは、有限な地球環境の中ではあり得ない。人口は減らざるをえない。それがエコロジーなのだ。

問題はいかにして、人口を減らし、特に中産階級の環境負荷を減らすかということであり、それを他人任せにすれば、きわめて非人道的なやり方を強いられることにもなりかねない。どんな理不尽に思えることも、生態系の要求は容赦なしだ。背に腹は代えられない。その実感がなければ、エコ談義は空回りする。

国連報告書は「小手先の細工では不十分で、現在の世界的な経済危機は大がかりな改革の機会」だというが、世界中で10億といわれるミドルクラスの人間には、それが理解できているのか。あなたと私のことだ。私たち中産階級の一番の問題は、自分たちが裕福な暮らしをしていることを自覚していないことだ。そこそこの暮らしをしているだけじゃないかと思い込んでいることだ。そして自分たちの「ささやかな」暮らしは昨日よりも明日はもっと豊かになるだろうと思い込んでいる。自分の息子や娘たちの時代はいまよりも、ずっともっとましになるはずだ。人類は発展するものだと思い込んでいる。

右肩上がりの飽食時代に慣れた身にはつらいことかも知れないが、下山していく時、もう一度、世界を見直し、自分の立つ場所を確認しなければならない。自分の息子や娘が大きくなる頃、水はどこから来るのか。まずは、その現実をしっかりと見つめることだ。食糧やエネルギーはどこから手に入れるのか。自然という生産システムに自分はどう関わるのか。
楽しく優雅な下山の道筋を考える時、パーマカルチャーはきっと役に立つだろう。限界を見極めた上で、そこに知恵を働かせること、有限な自然を理解し、そのうえで快適な暮らしを作り出すこと。それがパーマカルチャーの神髄なのだから。数あるパーマカルチャーについて書かれた本のなかでも、本書は知恵を働かせる思考回路の作り方を解き明かしているので、何度も何度も繰り返し読むことになるだろう。一気に読むような本ではない。トランジション・タウン運動を始めたロブ・ホプキンスはこの本を「とても密度の濃いチョコレート・ケーキだ」と例えた。少しずつ、少しずつ、味わいながら消化するのがいい。コーヒーを一口すすり、またページをめくる。ホルムグレンが唱える原理を自分の境遇に当てはめ、反芻し、理解し、議論する。そして行動に反映する。それをくり返していくうちに、優雅な下山が始まっていることだろう。

●発刊にいたるまでの経緯
本作は、本当なら、もっと早くに翻訳が出版されているはずだった。最初に話が持ち上がったのが04年にホルムグレンが日本に講演に呼ばれた時で、翻訳の一次稿は翌年には仕上がっていたのだから。そのツアーにオーストラリアから通訳兼ツアマネとして帯同することになる前からこの本は何度も読んでいた。
最初に翻訳出版の話を聞いた時、これだけ密度の濃い、量も半端じゃない本は大変だろうなと思った。なにしろ、ホルムグレンが20年以上のパーマカルチャー生活の実践から抽出した12の原理だ。小手先の技術じゃない。その技術にいたるための考え方、思考の回路を手にするための羅針盤だ。
これからの時代にとても有用な本だから、なんとか形にしたい。どうしようかなあ。やるべきだけど、とてもできそうもない。そんなことを考えている時、頭に浮かんだのは、その数年前に出版された『自家採種ハンドブック「たねとりくらぶ」を始めよう』(現代書館)だった。
オーストラリアのパーマカルチャー実践家の手になる『自家採種ハンドブック』の翻訳出版のやり方は斬新だった。全国どころか海外から参加した翻訳作業者がネット経由でつながり、翻訳文章はネットの書庫で共有され、表現の不確かなところ、分からないところがあれば質問し合い、別な人が目を通し、査読し、意見を交わす。ネットという通信手段の利点をうまく使い、水平的につながり、そんなところが、きわめてパーマカルチャーなやり方だと思った。コンセプトとしてはそれまでにも存在してたし、ネット環境が格段に整った今なら珍しいことはない。でも、当時は技術的に可能になったばかりだったから、とても画期的で斬新な気がした。自分はいろいろな事情でほんの少ししか関われなかったけれど、顔も知らない人との協働作業にとても興奮し、本の内容以上にわくわくしたことを覚えている。
信州安曇野のパーマカルチャー宿、シャロムヒュッテに逗留し本書の翻訳をやろうかどうしようか考えた時、まず頭に浮かんだのは『自家採種ハンドブック』の中心スタッフの一員であり、兵庫で百姓をやる福本夫妻を引き込むことだった。ネットワーク運営のつぼを心得ただんなの福裕さん、そして在宅翻訳者の福麻さん、この二人をうまくたぶらかせばどうにかなるかも知れない。
てなわけで、福本夫妻を説き伏せたあとは、想像通り、葉子さんと市川さんは福本夫妻が紹介してくれ、綾さんと須藤姉妹は、こっちの張ったクモの巣に自ら飛び込んできてくれた。眺めてみると、ものすごい顔ぶれで、約束の翌年初めには一次稿が終わっていた。だから、本書は本当ならば、その年の3月か4月には出版されるはずだった。
ところが、作業を終えて、何ヶ月にもなるのに、本が出る気配はまったくない。どうしたんだと思っていると、最初に話を持ち込んだ人の手で約束は反古にされてしまった。

その後、いろいろな人の手を煩わせ、いくつもの出版社に本書を持ち込んだ。でも、結局、今日まで日の目を見ることはなかったのだけど、いろいろ、伝手を通じていろいろな出版社に話を持っていってくれた陶芸家の西城鉄男さん、作家の清野栄一さん、翻訳者の須藤晶子さん。実ることはなかったけど、本当にありがとう。

もっと早く本書が出ていたらよかったとは思う。でも、その反面、これも運命的なもので、もしかすると天の配剤かなと最近は思うようになっている。むしろ原著が出版されて10年を経て、しかも、日本でフクシマのあとに出版されるってのも、実は大きな意味があるのかもしれないなあと思うようになった。
そういうものなんだよね、何事も。起こることは起こる時に、起こるような形でしか起きないのかも知れない。原著が出版されてからの10年間に起きたことを振り返ってみると、本書の内容は今の方が10年前よりも理解しやすくなったのではないかって気がする。この本の翻訳がこういう形で出ることは最初から運命づけられていたのかも知れない。

翻訳作業が長かったので、たくさんの友人や家族の世話になった。ありがとう。名前をいちいち挙げていくときりがないが、いつものように鴨川自然王国の皆さん(ヤエちゃん、ミツヲさん、カズマにケンタ、石井さん、ガミちゃん、そして登紀子さん)に本当に世話になった。ありがとう。

特に校正段階にはいってからは、浦安の典子さんとはなに遊んでもらったのが、物心両面で大きな支えになった。ありがとう。

天空企画の智内好文さんが翻訳原稿を持って、根気強くいくつもの出版社を回ってくれなければ、本書は日の目を見ることはなかったに違いない。智内さんの励ましがなかったら、きっと、めげて、すねてたままだった。本当にありがとう。最終的に本書の出版を引き受けてくれ、丁寧な校正作業をしてくれたコモンズの大江正章さんにも感謝。

今日も地球のどこかで、ヴァレインズやザ・クリーンの良質ポップに心を躍らせながら。
rita

電気自動車の環境負荷


環境意識の高まりで電気自動車(EV)の普及が進んでいる。エコカーと位置づけられ、日本でも充電スタンドの数が増え、災害時の緊急電源としての利用が可能なことから、特に都市部で導入が進んでいる。ガソリンスタンドの閉鎖が進む農村部でも自宅で充電できる利点を生かし、軽トラが発売されるなど、農村部へも浸透しそうだ。自動車企業はEVをこれからの成長分野として位置づけ、開発やインフラの整備を急いでいる。

たしかに運転中は排ガスを出さないので環境への負荷は従来の内燃機関に頼るクルマよりは少なそうな電気自動車だが、生産から廃棄までライフサイクルで見た場合どうなのか。これまであまり、信頼できる研究はされてこなかった。

最近『インダストリアル・エコロジー』誌に発表されたノルウェー科学技術大学の研究によれば、電気自動車は、特に発電に石炭が使われる場合、温室効果ガス排出量はガソリンやディーゼルエンジンのクルマよりも格段に大きくなることがわかった。

電気自動車はライフサイクルでもたらす環境への影響の半分は製造過程で出る。この研究によれば、従来のクルマの製造過程に比べ2倍のインパクトを温暖化にもたらす可能性があるとしている。

特に影響が大きいのはバッテリーで、製造過程で排出される温暖化ガスの35~41%を占める。アルミが多用されるインバーターや冷却装置も温暖化ガスの大きな排出源だ。また、アルミだけでなく銅やニッケルも従来のクルマ以上に必要で、これらはスモッグ、酸性化雨の原因にもなりかねない。

電気自動車の環境決済は、走行を始める前にかなりマイナスからスタートすることになる。だから走行中は「きれい」かもしれないが、ライフサイクルで見れば、従来のクルマとせいぜいどっこいどっこいか、劣ることになると研究はまとめている。

運転中に使用される電力が「クリーン」なものであればともかく、石炭や石油などの化石燃料によるものであれば、電気自動車の環境負荷はさらに大きくなり、場合によっては、従来のクルマの方がよっぽど環境に「やさしい」こともあり得る。

現在ヨーロッパにおける発電エネルギーミックスで、一般にいわれているように15万kmを寿命として計算すると、自動車企業が主張するように、電気自動車はガソリン車に比べ20〜24%、ディーゼル車に比べ10〜14%の温暖化ガス排出量を削減することができる。

しかし、天然ガス火力の場合、電気自動車の温暖化ガス削減量はガソリン車の12%と減り、ディーゼル車とはほとんど変わらなくなってしまう。さらに石炭火力発電はもっと酷くなり、ガソリンやディーゼル車に比べ17~27%も温暖化ガス排出量を増やしてしまう。

電気自動車は長く使い続けるほど、環境への価値が増すことを研究は指摘する。
「20万kmまで使えば、ディーゼル車と比較して17-20%、ガソリン車に比べれば27-29%の温暖化ガス削減になるが、反対に10万kmしか走らなければ、ガソリン車に対して9-14%の削減にしかならず、ディーゼル車とはほとんど差がなくなってしまう」

電気自動車の寿命はバッテリーにかかっている。バッテリーの技術は徐々に向上しており、電気自動車自体の寿命ものびる可能性がある。しかし、従来のエンジンも燃費の改善が進んでいる。ガソリンからディーゼルへの移行も加速するだろう。

電気自動車がはなから環境に「やさしい」と決めつけず、場合によってはマイナスになることも考慮しておかなければならない。導入を考えるならば、まず、どんなエネルギー源が発電に使われているのかを確認する、そして、バッテリーはどのくらいの期間保証されているのか、確認しろと報告書は結んでいる。

Tuesday, October 09, 2012

地域通貨/ブリストル・ポンドの実験


イングランド南西部の港町,ブリストルで先月始まった実験が世界の注目を集めている。

イギリス全体でも8番目に人口の多い(周辺の町を合わせ約56万人)都市で,国の法定通貨であるポンドと等価交換される独自の地域通貨,ブリストル・ポンドが発行されたからだ。

経済のグローバル化の進行で,地方で使われたお金はどんどんと域外へ流出してしまう。地元の中小企業は必要な資金が借りられず,地方経済は空洞化する。全国どこに行ってもおなじみのチェーン店が並ぶ構造をどう変えたらいいのか。地域で使われるカネを地域の中で循環させ、地域経済の活性化が地域通貨の目的だ。

地域経済の主権を地元の人の手、企業に取り戻すという地域通貨の理念に共感できても,実際に使うとなるとかなり使い勝手が悪い。日本などでも限られた商店街だけでしか使えないとか、また受け取った側は経理が煩雑になるなどの理由で,なかなか浸透してこなかった。

それはイギリスでも同様で,ブリストル以前にもいくつかの都市で地域通貨が導入されたものの,そうした理由であまり広がってこなかった。BBCによれば,ちょうど3年前にストラウド(グロスターシア)でも,ストラウド・ポンドと呼ばれる地域通貨が鳴り物入りで導入されたが、昨年はわずか4000ポンド(初年の半分)が発行されたに過ぎないという。環境意識が高いとされるストラウドでも,ボランティアの熱意が冷めてくるにつれ,煩雑さから敬遠されているのだろうと分析している。崇高な理念だけではだめなのだ。

その一方で,世界にはたくさんの成功例もある。ドイツのバベリア地方で2003年から流通するキームガウワは昨年55万キームガウワが市場に出回り,取引高は620万キームガウワだった。ユーロと等価交換だから620万ユーロ(約6200万円)が域外に流出せず,地方経済に貢献したことになる。

ブリストル・ポンドがキームガウワのように成功するかどうかはわからないが,これまでの地域通貨にはない特徴を備えていることは間違いなく、他の自治体ににも大きな参考となるだろう。



まず、これまで地域通貨といえば,商品券に毛がはえたようなものが多かったが,ブリストル・ポンド札は精巧な作りで,まるで本物の貨幣と変わらない。実は,「本物」のポンド札より偽造しにくい工夫が凝らされていると言う。ブリストル・ポンドは9月半ばに10万ポンド(約1250万円)が発行され,来年には600万ポンドの取引を目指している。

使い勝手でいえば,ブリストル・ポンドはこれまでの地域通貨のように、加盟する350以上の地元商店や業者で使えるだけでなく,オンライン決済にも使用できる。たぶん,地域通貨では世界で初めてではないだろうか。

市当局が地域通貨を保証し,地元の信用金庫が発行から決済を担当するだけに、美術館など公共の施設で利用できるのはもちろんだが、地方税の納付もブリストル・ポンドでオーケーなのだ。公務員給与の支払いの一部も地域通貨だから、公務員が積極的に使わざるをえない。自治体がこれほど積極的に関わる地域通貨はイギリスでも初めてだろう。

金融危機に際し,中央銀行は通貨の量的緩和政策をとりがちだが,経済弱者を救うことはなく,経済中枢はともかく,地方経済は疲弊するだけだ。グローバル化した経済に対し,地方自治体は無力だと思われがちだが,ブリストルのように地域通貨の流通に積極的に関わることで,地場の中小企業を支え,地方経済の活性化を促すことができる。

それが五井平和賞を受賞した『幸せの経済学』の監督、ヘレナ・ノーバーグ・ホッジやパーマカルチャーの創始者,デビッド・ホルムグレンが言うような地域経済の再建の一助になることは間違いない。

9月28日のスケッチ

旅先で見かけたポスターにつられ,同郷の「広告界の神様」太田英茂の作品展を見る機会がありました。花王石鹸など,昭和初期の日本で広告戦略やデザインに新しい境地を開いた人です。また、日本の近代デザインの基礎を築いた河野鷹思、木村伊兵衛、原弘、亀倉雄策などを育てたことでも知られる人です。戦前のフォトモンタージュや斬新なコピーなどにはあらためてうっとりとしましたが,これまで知らなかったこともありました。太田は,戦争末期に郷里に戻り,村のあり方,農と食などを村の若者たちと論じていたのだそうです。そればかりか、医食同源を唱え、マクロの元祖ともいわれる石塚左玄の「科学的食養長寿論」を写本するほど影響を受けていたようです。戦後,再び東京に戻った太田は酒悦の広告などを手がけますが,77歳の1969年,「人生の最終ラウンドは山村にこもり,自然の子となり,自然と人間の関係,人間とその社会,人類のあるべき未来像,この一連のテーマと唯物史観に立って激しく取ッ組みながら,原始に近づけた生き方から,体得と読書と啓示をとおして飽かず追求しようと思っています」と「蒸発宣言」を出し,再び郷里の梓村に戻り、そこで生涯を閉じました。

うっとりしながら美術館を出て,まだ暑い日差しの空を見上げると,なぜかピーター・ポール&メアリーなどのカバーで知られる名曲「500マイルズ」が口をついて出てきました。汽車がごとんごとんと離れていくにつれ,心も離れていく、そんな歌を久しぶりに口ずさみながら、思えば,ニュージーランドの南島の人口300人の村をあとに,着の身着のままの流浪モードに入り、3年近く経っていることに気づきました。ホームレスにペニレス,まるでその歌詞のような自分が、ここまで何とはなしに生きてこられたのもあちこちの知人,友人たちのおかげです。

こういう自分はまるで、寄生虫のような存在だなあと思うことがあります。流浪モードで他人の世話になるしか仕方のない自分を正当化するつもりはないんですが,自然の中では寄生関係はかなり当たり前なことだそうです。バクテリアなんかはほとんど,そういう関係だそうです。寄生とまでいかなくても,共生や共働も,弱肉強食の競争関係よりも普通なんだそうです。ダーウィンの説を社会に応用した社会的進化論には,無政府主義者のクロポトキンが『相互扶助論』(翻訳は大杉栄)で的確に反論しています。80年代以来世界を席巻する新自由主義で、人間は個に分断され,競争を煽られています。ひとつ,立ち止まって,競争はそれほどいいものなのか,自然なものなのか,考えてみるのもいいかもしれません。

太田は数々の名句を残しましたが、特に元気付けられ、手帳に書き写したのは「今からでもおそくない。よき最後はこれからの毎日の過ごし方にかかっている」でした。これからまだまだ、しばらくは心も身体も流浪モードが続きそうですが,太田のように「正面向きの生活」に立ち向かっていこうと思います。