Tuesday, July 17, 2007

食のグローバル化ではなく、ローカル化

日本ではWTO(世界貿易機構)や自由貿易協定や経済連携協定の締結といった形で貿易の自由化の促進が声だかに叫ばれています。5月8日には経済財政諮問会議・グローバル化改革専門調査会からEPAの加速、農業改革の強化をうたう第一次報告書が発表され、大手マスコミから大きくもてはやされています。

経済財政諮問会議・グローバル化改革専門調査会というのは2001年1月に設置され、経済財政に関する重要な事をいろいろ調査審議するという機関です。グローバル化にあまりに熱心すぎるとか、出てくる「グローバル化」も米国の年次改革要望書の内容通りなものが多いとか、まあ、そういう批判が自民党の中からもあるようです。自分のことを棚に上げて、今更、んなこと言えないでしょうってな気もするし、この団体がグローバル化にしゃかりきな報告書を出すこと自体、その名前からもわかるように、あんまり驚くことじゃありません。それがこの団体の存続理由なんですから。

でも、米国べったりのグローバル化推進機関の出した第一次報告書を、大手マスコミが真っ当な批判もせずに持ち上げるとなると話は別です。

アサヒ新聞は5月10日の社説で大ヨイショしてます。
「わが国は農業保護が足かせになって貿易交渉を進められず、自由貿易の拡大という世界の流れから取り残されそうになっている。市場開放に耐えられる農業にしないと農業以外の国際競争力まで落ちる、という危機感が背景にある」。

そうかと思えば、トーキョー新聞はWTOドーハラウンドの決裂を受けた6月25日の社説で「自由貿易体制強化への動きを止めてはならない。日本は事態打開へ積極的に汗を流すべきだ」と政府や国民を煽ります。貿易の自由化で関税など農産物の国境措置が撤廃されれば、国内農業への打撃が予想されますが、それについて同紙社説は「痛みは避けて通れないが、むしろ、意欲のある担い手育成などの好機ととらえて自由化がもたらす痛みを克服する」べきであると結論しています。

ウハーッ。

21世紀に入り、世界各地で「市場原理」や「競争原理」の破綻を目にしているはずなのに、相変わらずこれらを金科玉条にして、すべてをゆだねようとする態度はどこから来るのでしょうか。なにか、これらのマスコミは隠し持った情報があるのでしょうか。疑問です。

グローバル化改革専門調査会がぶち上げ、マスコミが後押しする近代的で経済効率的な農業とは、単一作物を大規模な農場でなるべく人手をかけずに栽培する。それを何千キロも離れた市場に大規模流通させる。それが「カネになる」農業の中味なのですが、それはこれからも継続可能なものなのでしょうか。また、「安い食品」はどこにあるのでしょうか。いつまでも手に入るものなのでしょうか。たとえ、経済効率的な農業が「消費者」にはありがたいものでも、「生活者」のためにはどうなのでしょうか。

こういう言説を聞くと、いま、自分たちが呼吸するのがどういう時代であるのか、わかっているのか、疑問になります。何を口にして生きているのか、これから何を食って生きていくつもりなのか、それをはっきり把握し,そのうえで政策を提言したり、モノを言い、自由を律していかないと、その影響をもろに受ける自分の児孫から後ろ指を指されるのではないかと心配です。私たちはとても希有な時代を生きています。それは、これまでの「常識」があまり通用しない時代であり、あたりまえがあたりまえでなくなる時代です。

私たちの生きるのがどれほど特異な時代であるのか、英国政府のエネルギー政策諮問委員会のメンバーを務めるジェレミー・レゲットは、人類はふたつの大量破壊兵器を突きつけられていると表現します。「ひとつは、欧米経済を破壊し、実質的に資本主義そのものを破綻させることのできる、経済的な時限爆弾。もう一つは生態系を、すべて破壊させることができる生物兵器である」(「ピーク・オイル・パニック」作品社より)。

人類を脅かすふたつの大量破壊兵器とはもちろん、ピークオイルと気候ゲテモノ化のことです(一般的には「地球温暖化」といわれますが、何か、ほんわか,ぬくぬくと温かくなっていくようで,あんまり危機感を喚起しないので、エイモリー・ロビンスなどにならい「気候ゲテモノ化」という表現を使うようにしています)。

気候ゲテモノ化時代についてはかなりひろく認識されていますが、なかにはまだ、自分の目の黒いうちは大丈夫だ楽観する人も多いようです。ゲテモノ化時代はすでに始まっており、いま、それが現実なのです。すでに「季節外れ」だの「記録破り」なんてフレーズが連発され、これまでの気象記録や記憶、常識が使い物にならない、未曾有の領域で何が起こるかわからない、そんな時代に人類はすでに足を突っ込んでいます。環境ゲテモノ化時代はすでに始まっている、そのことをまず、肝に銘じておかなければなりません。そして、どれだけ非経済的で非効率的であろうとも、人間の食べるものはすべからく、自然という制約の中でしか生産しえないのです。

たとえば、日本の貿易自由化論者があてにする国のひとつにオーストラリアがあります。食肉、小麦、大麦では世界第二位の輸出国であり、オージービーフだとか、コメ、生鮮野菜などを日本に輸出している国です。同国は日本との間に最近「安保共同宣言」を結んだ国でもあり、ハワード政権は日本との間に経済連携協定を結ぼうと熱心に呼びかけています。頼りにしても大丈夫なように見えますが、さて、生産基盤のほうはどうなのでしょう。気候ゲテモノ化時代に、この国はこれまで通り、日本や世界の消費者のために安い食品を作り続け供給することができるのでしょうか。

オーストラリアはここ数年、第2次大戦末期の干ばつ,そして,1901年の連邦結成当時の干ばつなどが比較にならないほどの干ばつに喘いでいます。6月に入り、シドニーやメルボルン近辺では大雨があちこちで洪水を引き起こすほどの勢いで降り、シドニーの水瓶ワラガンバ・ダムは久しぶりに5割を超え,それが大きなニュースになるほどです。しかし、それでも、州政府は淡水化プラント施設の建設を決めています。お隣、ビクトリア州でも同様の施設の建設が発表されたばかりです。各地で送水用パイプラインの建設も進んでいます。これから水不足の恒常化は避けられない。それが一致した見方です。

まあ、60年に一度,もしくは百年以上に1度の規模の干ばつ、なんてのは頼りになる記憶や記録があり,なるほどって思いますが,「千年に一度」なんて表現も飛び出すほどの干ばつです。うーん,これは白人の入植(侵略)以前のことだぞ。先住民族の記憶に基づくものなのでしょうか。それとも「史上最悪」を言い換えただけなのでしょうか。

もちろん、ゲテモノ化時代は未曾有の領域であり、何が起こるかわからない、それが基本であり、水不足の恒常化と洪水が隣り合わせで存在してもまったく不思議ではありません。年間降水量の辻褄はあうかもしれませんが、降れば土砂降り、でも、次の雨がいつになることやらわからない。そんな降水状態では、人間にも植物にも使える水の量は限られてしまいます。

オーストラリアの農業を支えてきたのは大陸の南東部内陸に広がるマレー川/ダーリング川流域です。もともと降水量は少ない土地ですが、ここでコメや小麦や大麦、綿花に食肉など、全国農産物の4割が生産されています。最近ではワインの生産も盛んです。金額ベースで輸出の1/4を稼ぎ出し、オーストラリアを世界有数の食料輸出国にしてきたのは、この流域です。

しかし、この地域の乾燥ぶりは壊滅的です。農業資源経済局(ABARE)の2月の発表によれば、昨冬の小麦、大麦、菜種は軒並み6割減。夏作物のコメの作付けは90%も減っているそうです。しかも、これが近年の「千年に一度の干ばつ」だけが原因ではなさそうなことの方が長期的にはもっと重大です。塩害や富栄養はすでに数年以上前から指摘されており、長年にわたる無茶な取水に頼る農業のおかげで流域の生態系はひん死の状態です。ちょっとやそっとの乾燥にも耐え、寿命が500年から1000年に達することもあるレッドガムと呼ばれるユーカリの木さえ枯れ始めています。事の重大さに重大さに気づいた連邦政府は100億ドルの予算で、流域再生計画を打ち上げていますが、乾いた大陸から水を搾り取る環境収奪型の農業をこれからの時代、どこまで続けていけるのか、はなはだ疑問です。

気候ゲテモノ化の時代には恒常的な水不足,干ばつだけでなく、突風やサイクロンなど「異常気象」も多発し、大型化する、ブッシュファイヤーも頻繁になると言われています。

2006年3月には、オーストラリア北部を大型サイクロン「ラリー」が襲来しました。これがゲテモノ化時代の所産であるのかどうか、それはともかく、このサイクロンのおかげで、バナナの値段は急騰しました。バナナ生産の9割近くが集中していたからです。とたんにバナナ不足という事態になり、他の果物や野菜の値段を押し上げ、物価全体を押し上げることになりました。

単一品種を数少ない場所で生産することは,経済効率的かもしれませんが、ひよわであることをさらけ出した例です。値段は少々高くなっても、バナナがいろいろな場所で少しずつ,あちこちで作られていれば、一ケ所がサイクロンに襲われてもうろたえることはありません。「安い」農産物には、こうしたリスクを内包しています。しかも、こんな規模のサイクロンや颱風やハリケーンがごろごろ来る時代、気候変動を引き起こした張本人である人間は、そのつけを払う覚悟しておかなければなりません。

気候ゲテモノ化にはピークオイルという醜い双子がいます。レゲットが「資本主義そのものを破綻させることのできる、経済的な時限爆弾」と表現する、もうひとつの大量破壊兵器です。気候ゲテモノ化ほどには知られていませんが、こちらも壊滅的な破壊力を持っています。

ピークというのは「頂点」のことで、ピークオイルというのは有限であるアブラを半分採掘し尽くした時点のことです。アブラはまだ、これまでに使ったのと同じだけの量が残っているのですが、いったんピークに達してしまえば、それ以降、どれだけ、設備投資をしようが、どれだけ技術革新が進もうが、生産は下がり続けます。

人間というのは、何にしても楽に掘れる場所から掘り出すものです。わざわざ数千メートルの深海やアラスカの凍土から先に手をつけることはありません。そして、精製に手間のかからないアブラから手をつけます。石炭のいとこのようなタールサンドや、重質なオリノコ原油など、精製に手間のかかるアブラがつい最近まで見向きもされなかったのはそれが理由です。まだ半分残るアブラは、これまでのように簡単に手に入る良質なものではなくなります。ピークオイルというのは、安いアブラ(チープ・オイル)がふんだんに使える時代は終わった、終わろうとしていることです。

150年前に発見されて以来、アブラは私たちの生活を大きく変えてしまいました。自由貿易論者があてにするような安い農産品を遠隔地から手に入れられるのも、安いアブラがあるからです。結果として、よりたくさんの人口を養えるようになった大きな理由もアブラにあります。安いアブラのおかげで、「戦後育ちの我々は、食品価格というものは下がるものだとばかり思い込んできた」(英国インデペンデント紙6月23日付けの記事)のです。近代的で経済的な農業生産、流通、消費の過程はどれをとっても「チープ・オイル」抜きでは成り立ちません。

パーマカルチャーの開祖、デビッド・ホルムグレンが「オーストラリアの牛乳は20%が石油である。ヨーロッパではおそらく50%。そして、イスラエルの酪農のやり方を見る限り、イスラエルで手に入る牛乳は80%が石油だ」(「パーマカルチャーの原理,そして持続可能性を超えた道筋」より)というように、われわれの食物には大量のアブラがしみ込んでいます。

アブラまみれの農業生産は、、すでにピークから大きく揺さぶられています。チープ・オイル時代の終わりは「食料が安い(チープ・フード)」時代の終わりも意味します。大量にしみ込んだアブラの値段が上がるにつれ、食品の値段も上がるだけでなく、限られた面積の農地や水を代用アブラの生産に使おうという要求が高まり、食品の高騰につながります。上記インデペンデント紙の記事はこれをアグフレーション(農業とインフレーションの合成語)と呼んでいます。

「去年1年、英国では穀類価格が12パーセント上昇し、世界市場における乳製品は60パーセ ント値上がりした。コメの価格は世界中で上昇中だ。ヨーロッパにおけるバターの価格は昨年、40パーセント上昇し、小麦の先物は、この10年間で最高値で取引されている。大豆の価格は5割上昇、中国における豚肉価格は昨年にくらべ20パーセント上昇、インドの食料品価格指数は11パーセント上昇した。メキシコではトルティーヤの値段が60パーセント上がったため、暴動になった」(上記インデペンデント紙の記事より)。

オイルピークの訪れで安いアブラが手に入らなくなるにつれ、トウモロコシや砂糖、キクイモ,大豆などの作物をクルマの代用アブラに振り向けようとする圧力が高まります。バイオ燃料生産は世界中で急ピッチで進んでおり、たとえば、世界の食物輸出の2/3を賄う米国では来期収穫予定のトウモロコシの3割がエタノール製造に向けられることになっています。農作物をクルマの燃料にするか、それとも人間や家畜の食料にするのか、農地の利用法をめぐる争いはすでに始まっており、これが農産価格を押し上げているのです。

バイオ燃料は「再生可能」な農産物から作り出されますが、耕作可能な土地や水,肥料など,生産の条件には限りがあり、どれだけ反収をあげようと、無限に生産を伸ばすことはできません。たとえば、2006年度、全世界の穀物収穫は20億2000万トン、ここ5年の平均を上回る史上3位の豊作でした。しかし国連食料農業機関の報告によれば、世界の期末備蓄量、つまり次の収穫までの備蓄は57日分にまで減っているそうです。これは生産が頭打ち状態であるにも関わらず,消費需要は急増しており、備蓄の切り崩しが進んでいる、ということになります。

食料にするのか、それともクルマの燃料にするのか、地球上で生産可能な農産物の使い道を巡る競争はオイルピークの影響が本格的に現れるにつれ、激化していくことでしょう。言葉をかえれば、自由貿易論者があてにする「安い食品(チープフード)」を見つけるのは次第に難しくなるのです。食品はどんどん安くなる、そういう「常識」はアブラ生産が右膝下がりになる時代には通用しないのです。近場の農業が多少痛手をこうむろうが、遠隔地から安い食品を持ってくるから大丈夫というような考え方はアブラが減少する時代には、成り立ちません。自分の子供や孫のことを思うなら、自分たちの口にする食品からいかにアブラを抜いていくか、それを考えなければなりません。

さて、食物からアブラを抜いていくにはどうしたらいいのでしょうか。環境ゲテモノ化時代に「骨太な」食生活を構築するにはどうしたらいいのでしょう。
食のグローバル化という政策への対抗軸としては、食のローカル化が有効です。「国」の食料自給率を上げるべきだと声だかに叫ぶ方法もありますが、一人一人が意識改革をし、自分のからだから一滴ずつアブラを抜く努力をしない限り、それも空論に終わってしまうでしょう。まずは、地球のはてからアブラまみれで届く食品を拒否するところから始まります。グローバルな食生活、食の経済に慣れたからだには大変なことのようにも思えますが、食のローカル化は簡単にイメージできます。自分を中心に、同心円に広がる水の波紋を想像し、なるべく自分に近い場所で食料を確保することを心がければいいのです。国民皆農なんて言い方もありますが、食のローカル化はまず、「王様」と不当に祭り上げられてきた「消費者」の座から自ら進んで退位して「生産者」の地位を再獲得することから始まります。

都会のアパート暮らし、ねこの額ほどの庭もない人も、あきらめることはできません。「生産者」はアパートのベランダ、屋上、どこでも始めらるところから、生産しなくてはなりません。最初からすべてを賄おうというわけじゃありません。できるところからできるペースでゆっくりと、自らを「生産者」に変えていけばいいのです。近所に空き地があるかもしれないし、共同菜園があるかもしれません。もうひとつ、輪を広げて、同じ地域のプロの農家と提携していくこともできます。あくまでも生産者として、同一の地平にたちながら。こうやって、一人一人が食の生産に取り組み、食の経済をローカル化していく。一人一人がそういう視点を持ち、自らの手を土に突っ込み、口にするものからアブラを抜いていけば、国の食料自給率も自然に高まるでしょう。

環境ゲテモノ化時代、そしてオイルピークという時代、生き残る戦略は食のグローバル化ではなく、ローカル化です。

「増刊現代農業」8月号への原稿

No comments: