飛行機だって?アホウドリのようなもので,ちょっとの間空を飛んだかもしれないが,いまはもう絶滅寸前,もう時間の問題でしょ。ってな調子で,飛ぶのをやめることについて書き出しています。
今から10年ほど前までは東京とシドニーが感覚的には隣町に感じるほどで、そこからまたあちこちへ、取材だツアーだ,何のかんの理由を付け年に何度も飛び回ったものです。それがまあ,心理的につらくなり,しまいには飛行場に着く前にぐでんぐでんに酔っぱらったり,ラリラリになっていないと飛行機にも乗れないようになってしまいました。
んなことを思い出しながら,あれこれデータ的なことを調べたり,そういう合間にあっちへふらり、こちらへふらり。そしたらこんなのにでっくわした。
「強制的に米牛肉を食べさせられる恐怖〜米航空会社の機内食問題〜」という仰々しいタイトルの記事にでっくわした。普段はなるへそって意見を述べる人だけに,わくわくと読み出したのに、ちょいと残念。本来なら,ちゃいますよって直接いうべきなのだろうけど,つてがない。あっちのサイトで一般に公開するほどのことでもない。ので,ここにメモ。
それはまず、「9月上旬、調査研究でカナダのノヴァスコシア州及びニューファウンド・ラブラドール州にでかけた」という書き出しで始まります。
あたかもそれが至極当然のように航空会社のフライトをあれこれ,値段やらルートやらを比較し,結局はコンチネンタルで飛んだそうです。「仕事でハリファックスなどによく行くが」って、飛ぶことそのものの環境的なコストなどはまったく考慮されていないようです。
いやになるほど飛び回った自分のことを棚に上げ,他人のことをとやかく言えたものじゃありませんが、このご時勢に,飛行機で無頓着にびんびん飛び回る人から「環境云々」って聞かされても,あんまり説得力がないような気がします。
もちろん、大事な用件で飛ばなけりゃならない場合ってのはあるでしょうけれど、飛ぶことをあまりに当たり前に捉えているような気がします。
そして,話は「本題」の機内食に移ります。「最初に断っておくが、ここでの問題では、よく言われる機内食がうまいとかまずいと言う問題ではない」。はあ〜っ。
それから延々と,微に入り細に入り,機内食で米国産牛肉しか選択がなかったことを述べ,文句を言い、しまいには、「ひるがえってリスクがある場合でも、最終的に自己の責任であれっても、複数からひとつを選択できることが民主主義社会の最低限の基盤である」とものすごい結論に到達します。
食肉製造機に穀物を投入するため、空きっ腹を抱えるしか「選択」のない人たちのこと、食肉製造のもたらす地球環境への負荷よりも、先進国で「民主主義社会」を享受する事の方が大切だって感覚,わかりません。
「もっと言えば、機内にはベジタリアンや宗教的理由で豚であれ豚肉でも食べれない乗客もいるだろう。それらに細かく対応しろとは言わないが、今回の一件は、テロ対策の名のもとに、どんどん疲弊し、多様性をなくす米国社会、企業の一端を垣間見た気がする」ってのは明らかに事実誤認に基づく飛躍した結論です。
かつての社会主義国の飛行機では,そういう経験もしましたが,いまどき、ありえないのではないでしょうか。もっとも,最近は飛行機に乗らないので,確かじゃありませんが,自分のように工業的に生産された肉を拒否する人間や宗教上の理由で肉を食べない人たちはずっと、スペシャルミール(特別食)をリクエストしていました。チケットを買う時でも予約を入れる時でも一言お願いすれば,ギャラリーから一番離れた席に座っていても,誰よりも早く食事にありつけますよ。
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