はっ。
これまでの人生もかなりずっこけだらけで、自分でも呆れてしまうほどで、それから考えれば、まあ。何週間か前、大学に入学し新しい生活をはじめたと思ったら早々、退学です。あーあっ。これで3度目。だから、学歴は相変わらず、高卒(大学中退)のまま。
あーあっ。
授業に出たのはわずか2週間足らず。やはり、基本的に高卒を対象とした授業は、予想してはいたものの、なんとも退屈。新しく学ばなかったことがまったくないわけじゃないし、高卒の連中との会話はとっても楽しかったし、刺激されることもたくさんあった。んでも、時代認識が違い過ぎて、オイルピーク後の社会に暮らしているという切迫感がないし、それにあわせるにはこちらが性急すぎるようだ。「行動」を説くのに、実際、行動していない連中にあわせているだけの時間は残されていない。
などなど。
なれない運転をたくさんしたせいか、すばらしい夕日を眺めた翌朝、農場で目を覚ましたら腕が上がらなくて。学校に行かないで、一日、図書館から借りてきた本を読みふけりながら、そんな気になりました。
宿題は書こうと思えば簡単に書けますが、教師が読むか読まないか、その程度の読者を相手にそれなりの時間をかけてやることに意味があるのか。それよりも、知っていることを実行することのほうが重要なんじゃないか。知識を限られた読者向けにまとめるのではなく、いま、やりたいのは知らないことを教わりたいのだ。
たとえば、履修した課目のひとつに「農業における植物」というのがあります。
最初の課題は植物をひとつ選び、レポートをまとめる。普通は農作されている植物を選ぶのですが、ひとつ、アカシアについてやろうと思いました。ミモザともよばれ、アフリカなどにも原生種がありますが、アカシアはオーストラリアに1000種類くらいある、いわば、大陸を代表する植物です。薮のように生えるものから30メートル40メートル近くまで育つものまで、いろいろな種類がいろいろな気候に生えています。ふんだんにあるせいか、あまり研究対象にならないようで、それを取り入れた国や地域、アフリカや中国でのほうが原産地より研究が盛んなようです。
この木は窒素固定をすることから、オルタナ系農業では昔から重要視されされており、自然農法の福岡正信もこれを果樹園に植えることを薦めています。いわゆる肥料木です。石油減耗時代にこれまでアブラに頼ってきた窒素をどこから調達するのか、そいういう歴史認識からしてもますます重要視される植物だろう。
もちろん、木としての有用性はいうまでもありません。天然のソーラーパネル(!)といわれるくらい、太陽光を栄養に代える力で木に優るものはありません。生きている間は木陰を作り、防風、防火の役割を果たし、棘のあるものは天然の柵になります。アカシアのなかには、先住民族のアボリジニが種を粉に挽いて食用にするものもある。
伐採してからは、建材や家具の用材になるし、燃料になる。
てなわけで、結論は、生態的な農業を営むなら、地元に生えるアカシアを観察し、使用目的にあうものを選びだし、移植したり、種をとって栽培し、必要とする場所に植える。または、使用目的から地元の気候にあいそうなものを選び、それを植える。ことが重要なのではないか。
って、そこまで考えた時、それなら、やっちゃおう。レポートを書くより、外に出て、アカシアを観察し、種を集めよう。そうやって集めて、すでに播いた種から芽が出て、育っている木を移植しよう。すでに移植した木の手入れをしよう。そっちのほうが重要だ。いま、知りたいのはほかにまだ、どんな種類があり、そのうち、どれがここの気候にあうのか。そういうことであり、アカシアの重要性を説くことでもなければ、それを誰かに納得させるためじゃない。
そこまで考えて、あっ、こりゃだめだ。そう思いました。腕の痛みも慣れぬことをやるものじゃない、そんな啓示かなって受け止めちゃう。やりたくもないことを我慢して過ごすのに人生は短すぎる。
一学期はともかく、次からはレベルが上がる、つまり、ちょっとの間辛抱したらってアドバイスをしてくれる人もいました。でも、その代償に過ごす退屈な時間が長過ぎる。我慢の代償が大きすぎる。
そんなわけで、とりあえず、大学は中退しました。
てなわけで学生は中断、また無職で自由人にもどり、あれやこれや思い悩み、試行錯誤を繰り返し、格闘、奮戦することにします。
あーあっ。
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