(日豪プレス新年号の原稿)
あけましておめでとございます。
本誌「日豪プレス」も創刊30年ということで,まあ,めでたい限り。
いまから四半世紀以上前,シドニーにたどり着いたばかりで,ほとんど右も左もわからないのに、ダブルベイにあった編集室に押し掛け,勢いにまかせて、知ったかぶり、あれやこれや,あることないことでっち上げ,ページをもらったこと、つい昨日のことのように思い出します。
その頃,本誌もできてから4、5年だったんですね。なんだ,それならもっと高飛車に出てもよかったな。そんなことも知らなかった。とにかく,本誌は唯一無二の日本語メディアでした。
その頃から,隙間を探すのが得意だったんでしょうね。いまに比べると、ぺらぺらだった本誌の中に,文化を紹介する記事は坂井さんの連載する映画ものだけだと見て取り、音楽の記事なんかどうですって,言いよったのです。他人と既存の分野で競争するのはあんまり得意じゃありません。まあ,勝ち目がないので,それなら,自分の分野を作っちゃえっと。そういう腹でしたけど。
そうやってでっち上げて,はい、最初は音楽のこと,しばらく書かせてもらいました。連載2回目とか3回目で取り上げたミッドナイト・オイルってバンドのつるつる頭で,調子っぱずれな歌い手が野党の国会議員に当選し,環境/地球ゲテモノ化担当に任命される、今年の選挙で労働党が間違って勝ったりしたら,大臣ってんですから,時代も変わったものです。はい。んな昔の話です。
そうそう、あの記事でしたかねえ。ちょうど創刊したばかりの「地球のXXき方」ってガイドブックの編集の人間がこの国へも取材に来てて,ちょうど記事を見て,いくつか書いてほしいって話になって。それで、あのガイドブックの取材のために国内をあちこち回りました。それなりの評判だったようですが,すべてのきっかけは日豪プレスにあった,ということになりますね。
80年代の前半,インディのシーンも盛り上がってましたから,バンドを見に行くのが楽しくてたまりませんでした。ザ・バースディ・パーティとかゴー・ビトゥインズ,ラーフィング・クラウンズ。現在では「伝統の」なんて言われる連中が、夏になり,拠点としていたヨーロッパから戻ってきて,そのコンサートに出かけるのがフーブツシでしたから。んで,連中のいない間も,それなりにあれやこれや,おもしろバンドがぽこぽこあって,それらを見にでかけ,書いたりすることはとても楽しいことでした。
勢いのある時代だったと思います。パンクな時代というか、「ごちゃこちゃとしゃらくせえ、やっちゃえ」って。そんな「気合い」が通じる時代だった。シドニーの国営ラジオ局で,日本の現代音楽などを紹介する番組をやり始めたりしたのも,ちょうどその頃ですが、やっぱり,強引に,押し掛けて,あることないこと、でっちあげて丸め込んだ結果ですが。一度味をしめてしまうと、なかなか,やめられません。
音楽シーンの後ろには,マルチカルチャー、多文化主義を奨励する空気が漂ってました。「移民が持ち込む文化」をそれまでのように否定するのではなく,「違い」を尊ぼうという空気の流れがありました。単一で薄っぺらな文化社会からの脱皮の動き,と言えるかもしれません。なんでもありってな気風。
本誌を含め,エーゴ以外の言葉による出版や発言,文化の維持が奨励された時代で、移民テストが導入され,エーゴをしゃべるのは当たり前、そうでなけりゃ「非国民」だ,非オーストラリアだ。そういう押し付けがましい臭気がぷんぷんとする昨今とは比べ物にならない,活き活きとした時代でした。日本など,「ガイコク」からのテレビ番組を字幕で放送するテレビが出来たのもこの頃ですね。
そのうち,音楽シーンもしぼみ始め,本誌に書くのもだんだん億劫になってきて、確か,しばらく「休養」し、それから友人たちと作り上げた段ボール紙作りのキャラクターを抱え,シドニー各地を私的に観光して回る、何ともはやあんまり分けのわからない内容のページを書かせてもらいました。キャラを砂浜に寝かせてみたり,自殺の名所や、その頃設置され始めたばかりの「使用済み注射針ポスト」なんかの横に立たせ写真を撮る。その写真に、ほとんどまったく意味をなさない観光記録の文章をつける。そんな内容だった,と思います。
あの頃,事務所を一緒に借りていた連中と酒を飲みながら、出てきた企画ですが、同じキャラを漫画にしたり,tシャツ作ったり,何年続いたのか,覚えてませんけど,かなり長続きした「遊び」の一環でした。自分の暮らすシドニーのあちこち,探検して回りました。現在なら「保安上の理由」とやらではいれない場所にもいろいろ出かけ,それはそれで面白かったのですが,しばらくすると、探検したい場所もだんだんなくなります。
ちょうどスキャナーとかフォトショップが出始めた頃で,キャラクターはデジタルに変身し,「写真」の中に取り込めるようになり、そんなのを何回か。最初は面白かったけで,最後には、キャラクター自身、デジタル化した機械の中を都会の中のようにさまよう,確か,そんな写真で終わりにしたような気がします。あれが本誌との関わりは最後、かな。
ちょうどコンピュータを使い出した頃。いまからは信じられないほど旧式な機械の話だけど。
本誌とつきあい始めた頃は原稿用紙に鉛筆で手書きしてた原稿もそのころには、ワープロで打ったりするようになっていました。最初の頃は書き終わると,ダブルベイにあった編集室から誰か、とりにきてくれたり、自分で届けてました。最初は自分で出かけることが多かったですね。編集室には日本から何日遅れかで届く新聞が積んであったので、原稿をもってったついでにお茶をいただきながら,それをまとめて読む、なんて楽しみもありました。いまならネットのおかげで,日本の情報も家にいながらにして,ものすごい量が手に入ります。でも、情報なんて,集める気にさえなれば,方法はなんでもある,
編集室にはバシャンバシャンとタイプを打つ音がしてました。ホシさんやモトコさんやマサコさんとか専門のタイプうちの人が、手書きの原稿を読みながら、ひとつひとつの活字を拾う,そんなタイプの時代でした。字は汚いし、意味不明なことばかり書いていたから、印刷された誌面をみると誤字がたくさんあった。もともと,ほとんど意味にならない文章なので,気のつくひともいなかったし、自分でもアナログ時代のそういう誤解を楽しんでました。
手作業による誤解は、ワープロで原稿を作るようになると,少しは減ったけど,それでも時々ありました。だって、原稿はワープロ書きになったけど、タイピストの人が活字を拾って印刷用の文字にする作業はまだまだ、続いていましたから。最後の記事で、メインのキャラは確か,コンピュータ・チップの林立する中で立ち尽くすって格好だったけど,実際の誌面作りは,んなふうにひとつひとつ、アナログで手作りだった。
それから本誌を読むこともほとんどなくなり、オーストラリアの都市文化にも飽きてしまい,シドニーの季節のなさに耐えられなくなり,地球の患うビョーキに気がつき,人生もエネルギーという観点から見ることが多くなりました。シドニー郊外,標高千メートルの高原の町外れに暮らし始め,そろそろ10年近くになります。
その間に,あれやこれや,それまで考えていたこと,知ってしまったこと,などなど、エーゴや日本語で本を何冊か書きました。でも,もともと行動主義なので,庭をふらふらし,パーマカルチャーを学んだり,バイオダイナミック農法の本を読んだり,しまいには、ここからまたさらに西へ1時間半ほど行ったところにある場所に農場を買い,本格的に確固たる生活を築こうと画策もしました。でも,オーストラリアは首根っこまでズッポリと,干ばつ。ありゃ。水がなけりゃ,植物は育たないし,それをエサとする動物も育たないことに改めて気がつきまして、はあ、これは困ったぞ。
そんなこんなで、オベロンの農場を昨年末に売り払い,今年は「環境難民」の走りじゃないか,そんな気もしますが,湿潤なみどりの大地を求め,ちょいと,あちこち,ふらふらする予定です。水がなければ,水に流すなんて,粋な芸当も配慮も出来ない、じゃないですか。その顛末は、またいずれ本に書くつもりです。
ま、オーストラリアの将来がどうであれ,多民族社会のいく末がどうであれ,オイル・ピークもタイピストの誤植も、そんなこたあ、どうでもいい。
日豪プレスの創刊30周年、めでたいめでたい。坂井さん、お疲れさま。
No comments:
Post a Comment