Sunday, January 23, 2011

水色の自治/Plastic passion (is hard to handle).

昔は日常的に使っていたのに、今ではまったく手にすることのないもののひとつにプラスティックのボトル入り飲料水入りがあります。プラスティックの買い物袋と同じ頃、ほとんど同じ理由で使うのをやめることにした。どちらも格好が悪くてださいし、手触りも嫌いだし、どこかへ捨てなけりゃならないんだもの。

そのボトルが回り回ってどこへ行くのか、またどうやってそのボトルが作られたのか、なぜ、こんなに格好わるいのか、考えだしたらとても使えなくなった。
それらを捨てる「どこか」は見つからないし、「どこか」のはずの場所はださくて唖然としちゃった。「どこか」は、もうそれはいろいろ見に行きました。東京の「夢の島」も、そのあと何日も匂いが染み付くくらい見学させてもらったし、いろいろな町の「埋め立て地」もいやというほど見て回り、あまりにださいんでうんざりしちゃった。人間の技術だとか、叡智だとか、偉そうなこといってもせいぜい、この程度なのね。
[youtube=http://www.youtube.com/watch?v=uLrVCI4N67M&w=480&h=390]

喉が渇けば、ボトルを買う習慣が身に付いている現代人ばかりなのかと思ったら、そのあたりの感覚を共有する人が少しずつではありますが広がっているようです。
1月21日付け、オーストラリアのABC放送のニュースによれば首都の国立大学、キャンベラ大学が飲料水のペットボトルを販売禁止にするそうです。学生とスタッフあわせてキャンパス人口は13,000人。この措置で年間14,3000本のボトルが消費されないことになると予測されています。
キャンベラ大学学長のパーカー教授によれば、
ボトルを作るのに200ミリのアブラがいる。そして1リットルの水を作るために3リットルが必要。ボトルは43%がリサイクルに回されるが、残りはゴミとして捨てられ、埋め立て地にまわる
そうです。
日本ではどのくらいがリサイクルに回るのでしょうか。これを見ると、日本もにたようなものでしょうか。たとえリサイクルが100%でも問題がないわけじゃありません。リサイクルするためには、集めたり、仕分けをしたり、そして別な新しい製品として使えるようにするために、またエネルギーが必要になるからです。
知らなかったのですが、オーストラリアではすでに2009年、ニューサウスウエールズ州のバンダヌーンという町で、世界ではじめて、ペットボトル飲料水の販売禁止が導入されています。同じ年の7月に住民投票が行われ、355対1で禁止を決めたそうです。今回のキャンベラ大学の方が規模も大きく、しかも高等教育機関ではもちろんはじめてです。学生たちの間から、そういう提案が出てきたそうです。
キャンベラ大学では、バンダヌーンでもそうでしたが、噴水式水飲み器の設置が予定されています。日本でもオーストラリアでも、昔は駅や公園にあって、誰でも無料で水が飲めたものです。人間は水がなければ生きていけないわけで、きれいで飲用に適する水を社会がみんなのために提供するというのは、きわめて理にかなうことだと思います。

地域の住民や団体が、それぞれの場所でこのような理にかなうことをやっていくことが自治であり、その伝統がオーストラリアではまだまだ、どくんどくんと脈打っているのかもしれません。それとも、オーストラリアは世界中でも気候変動の影響を最も受けやすい場所のひとつであるだけに、そこに暮らす人が人一倍敏感に反応しているだけなのかもしれません。
昨今の日本に見られるような、グローバル化への醜い悪あがきの流れで見れば、こうした自治の動きはTPPなどの「自由貿易」協定では潰されかねないものであることも留意しておかなければなりません。
ここでも言及しましたが、「NAFTA(北米自由貿易協定)の11章」とよばれる「国対投資家の紛争解決(ISDS)」があります。投資家がパートナー国の政策により不利益を被った場合、提訴することができ、その投資家が勝訴すれば、パートナー国は損害賠償をしなければならないという条項です。もし、オーストラリアがこのような条項を持つ「自由貿易協定」をどこかの国と結んでいれば、ボトル入り飲用水で金儲けをする企業(例えば、赤と白の色使いで有名な企業など)が、バンダヌーンやキャンベラ大学の措置を提訴することは容易に想像できます。

人間には自治も水も欠かせません。それらを人間から奪おうとするのがグローバル化であり、自由貿易であるなら、遠慮します。ださいし、きわめて格好悪いんで、自分はローカルで行くことにします。

Here's how to handle Plastic passion.

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