Monday, September 05, 2011

太陽光発電は万能の救世主か?

脱原発,ピークオイル,環境破壊への対策として「再生可能エネルギー」が大きくもてはやされている。とりわけ太陽光発電への期待が大きい。確かに地球に降り注ぐ太陽エネルギーはものすごい量であり,ハイテクでエネルギー効率の良い社会を維持する、環境にやさしいクリーンな電力源と位置づけられることも多い。

もちろん、太陽光エネルギーなど自然エネルギーをこれまで以上に活用することは原発や化石燃料に頼るよりも「エコ」であり,「持続可能」である場合もある。しかし,ネコもしゃくしも屋根に太陽光パネルを載せればどこでも問題が解決するというような考え方は短絡にすぎるだろう。

現代人は忘れがちだが,自然環境の中からエネルギーを獲得するためには,それはそれぞれの場所によって異なる環境を理解しなければならない。水力発電はどこでもできるわけではない。風力についても適地がある。しかし,太陽光パネルとなると,なぜか,どこでもできるような思い込みをする人が多い。

太陽光発電は「エネルギー負荷がかからない」と思われがちだが、必ずしもそうとは限らないこともある。適材適所,それを理解してかからないと,太陽光発電は百害あって一利無しとなることもある。日が照っているというだけでどこでも太陽光発電に適しているとは限らない。それを理解するためには,まず,太陽光発電装置を作るために投入されたエネルギーを理解し,そして,耐用年数までにどのくらいのエネルギーの量が獲得できるのか,そしてその廃棄にどれほどのエネルギーがかかるのか,まず計算してみることだ。簡単に考えても,まず自分が設置しようとする場所の日射量を知るべきであり,製品の耐用年数をかけてみると、そのパネルが寿命がくるまでに獲得できる電力量がわかる。パネルの製造者は20年とか25年,30年はもつと言うが,劣化を考慮すれば10年、15年で性能はかなり落ちるのではないだろうか。

それぞれの土地の日射量について、ヨーロッパ/アフリカアメリカについてはかなり細かく地域ごとに計算のできるサイトがある。日本についても、そういうサイトがあれば適材適所を考える上で,最も基本となる日射量を数値として把握できるのだが。まあ、日射量は自分で計測することもできるが,大体のところはNEDOのデータが参考になる。これによれば、日本の都道府県庁所在地で一番日射量が多いのは高知、甲府,広島,宮崎の順になるそうだ。大体1日に1平方メートルあたり4kwhだそうだ(元データであるNEDOのデータがうちのピュータでは読み取れないので、これが天候を考慮した年平均値なのか,それとも晴れの日だけのデータなのか不明)。ただしこの数値は最適な角度に設置した場合のデータであり、実際はこれよりもかなり低くなるだろう。



これを日射量の世界地図で比べるとヨーロッパやアメリカのほとんどの場所よりも状況は良さそうだが,太陽光発電を考える場合,忘れてはならないのは発電装置を作るために大量のエネルギーの初期投資が行われていることだ。太陽光発電は大きなエネルギー的借金を抱え,マイナスからスタートする。稼働過程(発電の過程)でほかのエネルギーの投入がいらず、温暖化ガスを発生させないということだけで判断してはならない。

再生可能なエネルギー源を収穫し、貯蔵し、利用するには、きわめて高品質の様々なエネルギー(大半は非再生可能なエネルギー)を投入しなければならない。太陽光を電力に変換して出力する発電機にはいくつかのタイプがあるが、それぞれの部品は空から降ってくるわけではない。人間が製造しなければならない。それには当然エネルギーの初期投資が必要になる。最も一般的なシリコン太陽電池の場合,原料となる珪石(珪砂、シリカとも呼ばれる)を採掘し、不純物を取り除き,発電に使える形にするために膨大なエネルギーがかかる。シリコンの原料は国内に2億トンの埋蔵があると言われているが,現在は金属シリコンの状態で輸入するのが一般的だ。なぜか。それは酸化物を還元するために膨大な電力が必要になるからだ。だから、電力の比較的安い場所がシリコンの供給先になっている。太陽光パネルの部品はシリコンだけではない。パネルの枠組みには軽量でさびにくいアルミの使われることが多いが,アルミは電力を大量に必要とする。太陽光パネルはシリコンやアルミの製造過程でエネルギーが投入されるだけでなく,大気汚染,重金属汚染を引き起こし,温暖化ガスを多量に排出しているので、決して人畜無害な製品ではない。エネルギーの初期投資を下げ、環境負荷を減らすためには,太陽光発電システムの製造を太陽光エネルギーだけでまかなうことだ。

太陽光パネルにどれだけのエネルギーが初期投資されているのかについてはいくつか研究があり,たいていの場所では2、3年すれば、投入されたのに見合うだけの発電ができるだろうという楽観的なものもあれば、エネルギー的に見合うのは耐用年数ぎりぎりだろうというものもある。これらの研究のなかには,廃棄のエネルギーコストまで計算したものもあるにはあるが,たいていのものから見落とされているのは人的資源にかかるエネルギーだ。

目に見える形,商品化されたエネルギーだけが初期投資ではない。太陽光発電の装置は人間が作り出すものであり,「技術革新」にはエネルギーが大量に投入された教育や訓練が必要になる。高度な「技術」は一朝一夕に無から生み出されるわけではない。最終的なパネルの効率は「技術革新」や「研究開発」のおかげでよくなっていくかもしれないが,その効率を生み出す「技術革新」や「研究開発」にはより大量のエネルギーを使わなければならない。「技術」にはエネルギーが凝縮されている。太陽光パネルは膨大なエネルギー投資が行われてきた結果であることも留意しておかなければならない。

そして,それだけのエネルギーを「技術革新」に投入しながらもえられる効率はどれほどのものか、というとどうやらたいしたことはなさそうだ。

『Environmental Accounting(環境収支学)』の中で,パーマカルチャーにエネルギー的な支柱も提供したハワード・オーダム(オダムという表記もあり)は次のように結論している。

「太陽光発電の研究や生産が進むにつれ、太陽光発電装置の製造に必要なモノやサービスの量は年々少しずつ低下してきている。単位電力当たりのコストも、緩やかではあるが低下してきている。しかし、太陽光発電の効率改善が熱力学的段階まで進んだとしても、自然の太陽光発電装置である葉緑体の効率性の足下に及ぶかどうか、という程度のものである。生物物理学の研究によると、効率性を表す曲線を光の強度の関数として描いた場合、葉緑素単体のほうが太陽光発電よりも効率がよいことが分かっている。植物の光合成で行われる太陽光のエネルギー変換は、十億年にわたる自然の選択過程を経て、すでに最高のエメルギー収支を達成していると考えられる」

オーダムが指摘するように,「技術革新」が進んでも植物がこれまでに太陽エネルギーを取り込むため進化してきた効率の足下にも及ばないのだ。植物を含め生命体は,太陽エネルギーの恩恵を何十億年にわたり、主要なエネルギー源としてきた。そして、それを最大限に獲得し利用するための進化を遂げ、最適な形態にたどり着いているのではないだろうか。たかが,人間の「科学技術」がこの効率の良さに迫れるかといえば,はなはだ疑問である。

「再生可能エネルギー」の獲得や貯蔵は利用する場所で何が手に入るのか,まず、それを見極めなければならない。あらかじめ用意した答えをふさわしくない環境に無理矢理押しつけるような態度は人間の思い上がりのエゴであり,「環境にやさしく」もなければ、「エコ」でもない。太陽光発電は決して環境負荷のない技術ではない。それどころか、そぐわない場所では自己満足だけに終わり,実は害を及ぼすこともある。何かをすることで気持ちはよくなるかもしれないが,時には何もしない勇気が必要だ。まずは周囲の環境を観察し、自分の暮らしをエネルギー的に精査することだ。

1 comment:

Bii said...

「再生可能なエネルギー源を収穫し、貯蔵し、利用するには、きわめて高品質の様々なエネルギー(大半は非再生可能なエネルギー)を投入しなければならない。」

というところ、最も気にしていたところでした。特に太陽光発電に関しては。

重要な指摘と情報をありがとうございます。